【新事実】正史では、諸葛亮「夷陵の戦い」に挑む劉備を止めず。




まとめ

【新事実】正史では、諸葛亮「夷陵の戦い」に挑む劉備を止めず。




「夷陵の戦い」の発生した原因・きっかけ。

222年に、関羽が呉に殺された事に対する復讐戦として、蜀の皇帝である劉備自らがが大軍を率いて呉に襲い掛かるのが「夷陵の戦い(いりょうのたたかい)」です。

最初こそ大軍の勢いをまざまざとみせつけ破竹の勢いで勝ち進んだ蜀軍でした。

大群で間延びした陣形の弱点を、呉軍の陸遜に見破られ、火計の前に大敗を喫します。

そして、命からがら白帝城に逃げ込んだ劉備がそのまま没する事となる、蜀にとっては大きな歴史の分岐点となる闘いです。

三国志演義では、「夷陵の戦い」へ行く劉備を止める諸葛亮

横山光輝漫画に代表する三国志演義では、呉への復讐の闘いを仕掛ける劉備を諸葛亮は止めています。

ただ、情に厚い劉備。苦楽をともにしてきた義兄弟の関羽が殺されたという事にたいして感情の歯止めがきかず静止などお構いなしです。

では、なぜ、復讐戦である「夷陵の戦い」を孔明は止めたのでしょうか。

理由は簡単、敵国である魏が天下統一に近づくからです。

大軍を率いて劉備が、呉に攻め入った場合は、蜀と呉の総力戦です。また、どちらかが勝利して決着がついたとしても双方のダメージは相当なものです。

そこで、自らの手を汚さず敵国が弱り「漁夫の利」を得るのは魏だからです。

実際に、「夷陵の戦い」に勝利して士気が高まり、魏からの独立色を強めた呉ですが、222年には魏が攻め込んでいます(疫病の為撤退します)。

いかに魏が闘いの行方を気にしていたかが分かります。

諸葛亮が劉備をとめた理由を考察する。

大軍を率いて呉に襲い掛かった場合は、劉備たちがいなくなった国内の兵力が手薄になり、仮に、魏に攻め込まれたらひとたまりもありません。

一般的に、戦争を仕掛けるときは、国内も安定し、敵の状態を把握し、万全の体制を整えて出陣するのが一般的ですが、
「夷陵の闘い」については、義兄弟である関羽が殺されたことに対しての復讐戦として、急ごしらえで軍を整備しています。

十分な備えがなく、出陣後の国内の様子などを考えると、諸葛亮が出陣を止めるのも納得出来る理由です。

事実、大敗を喫して、劉備は白帝城で没することになります。

「情」を大切にしてのし上がった劉備でしたが、最後に、劉備を追い込んだのも「情」でした。仮に、合理的な判断ができる人間で、「夷陵の戦い」にのぞまなかったとしたら、また違った三国志の結末になっていたかもしれません。

ただ、人望と情に厚いのが劉備である、という魅力で身を興しているため、すべての流れは必然的な結果だったと考えるのが妥当だと思います。

史実では、「夷陵の戦い」に挑む劉備を止めなかった諸葛亮

さて、三国志の夷陵の戦いについて書いてきましたが、新事実です。NHKの番組「100分で名著」という番組紹介されていたのですが、実際の所、夷陵の戦いに行こうとする劉備を諸葛亮はとめなかったようです。

なぜ、とめなかったのか、

とめても無駄だと知っていたのでしょう。

そもそも、夷陵の戦いの前に、張飛も寝首をかかれています。また、夷陵の戦いの敗北によって、関羽が守ろうとしていた荊州の領有権を完全に呉に奪われてしまうなど、蜀にとってはトラウマともなる大きな分岐点だったと思います。

義兄弟である関羽が殺されたのに、国内情勢を考えて、家臣に止められて、敵討ちもしない劉備は見たくない気もするので、そういう面でも三国志は男たちの生き様を感じさせてくれます。

もし、劉備が夷陵の戦いに勝利していたら・・・。

さて、歴史に「たられば」は禁句ですが、夷陵の戦いに蜀軍が勝利していたらどうなっていたのか考察してみます。

呉の領地がすべて劉備の手におちれば、領土の面積的には魏と蜀は対等なレベルとなります。

洛陽や長安などがある、魏のほうがやはり国力は強いですが。

ただ、魏軍は水上戦が苦手だという事を赤壁の戦いで表面化していましたので、魏軍は呉の領地にはやすやすと手が出せないと思われます。

また、陸路で蜀方面に攻め込むにも険しい地形が邪魔をしますので、かなり苦労することになります。進行するとすれば荊州からが無難といえますが、荊州の拠点となる難攻不落と言われた襄陽城も堅固な要塞ですので、夷陵の戦いで蜀軍が勝利していた場合は、かなり面白い展開になっていたと思います。

また、違った形での司馬懿と諸葛亮の知恵比べが見られたと思います。