三国志の主人公の一人である劉備玄徳(りゅうびげんとく)。
むしろ織りの貧しい家の出身ながら、諸葛亮孔明の天下三分の計のもと、自ら”蜀”という領地を獲得し、歴史に残る大国の皇帝に成り上がるには幾多の苦労がありました。
劉備自信が、身分の低いところから成り上がっているので、地位が高くなってからも、誰も身分で差別しなかったので、誰からもとても人気がありました。
三国志演義では、漢の復興を目指すという位置づけ、そして道理からはずれたことを嫌い、正しい行い大切にする人間性から“主人公の立ち位置”に据えられています。
劉備の性格を表すエピソード 国(荊州)の譲渡を断る。
劉備が食客(居候)として、荊州という地域に滞在していた時のことでした。
滞在国の国王である劉表が病気により余命が僅かだったため、劉備に国を譲ると進言したことがありました。
しかし、千載一遇の好機を劉備は断ってしまいます。
その理由は「劉表には息子がいて、自分が皇帝になったら世間の人は襄陽を奪ったと思うだろう」ということからでした。
当然、劉備の家臣たちは、劉備に荊州をもらうように進言しますが、世間の評判・目線を第一に考える劉備は頑として受け入れませんでした。
喉から手が出るほどほしかった国を手に入れるチャンスを世間の評価を気にして断る劉備はやはり普通ではありません。
劉備の性格を表すエピソード 呂布を許し、呂布に泣く。
劉備が下邳という地区を領有していた際に、戦に破れた呂布という将軍が、劉備のもとに身を寄せてきました。
しかし、 呂布は義父殺しの恩知らずの人物として、世間では悪評が飛び交い、誰しもあまりいい印象はもっていませんでした。
当然、家臣たちもそんな危ない人物を滞在させてはいけないと進言しますが、劉備が良い人ぶりを発揮し、呂布を場内に迎え入れてしまうのです。
その結果、劉備が城を留守にしている最中に、呂布に城を奪われてしまうことになり、妻子も囚われてしまうのです。
最終的に劉備は呂布のもとに帰り和睦を請い、呂布から小沛という小さな城を与えられました。
このエピソードは、やはり劉備が器量の大きい人物であったといわざるを得ません。自分の国を奪った呂布にたいして和睦を申し入れ、城を与えてもらうという行為は誰しもできるものではありません。
劉備の性格を表すエピソード 十数万人がついてくる。
荊州が敵国・魏に渡り、劉備が荊州から逃亡する際には、劉備を慕って十数万人の荊州の住民が劉備の後を追いかけました。
敵国がくると皆殺しにされるという噂があったためともされていますが、慕っていない君主についていく住民ではなく、長く辛い旅路を経てもついていきたいと思われる人物だったといえます。
十数万人の住民の中には、女性・子供・老人もいたようで、逃亡スピードは決してはやくありませんでした。
馬にのっていた劉備軍は、住民をおいて猛スピードで逃げようと思えば逃げれたのですが「ついてきた住民をおいてはいけない」と、住民と同じ足並みで逃亡します。
結果、敵国に追いつかれてしまい大打撃を被るのでした。想像できた結果でしたが、猛スピードで逃げなかった劉備の行動はやはり普通ではないと言えます。
なお、敵国に追いつかれた劉備ですが、劉備を心から慕う部下達の頑張りにより、かろうじて難を逃れます。部下たちからすれば、そんな住民を見捨てない劉備だからこそ、助けるためなら何でもするぞ!という、意気込みが違ったのだと思います。
劉備の性格を表すエピソード 国を譲る宣言をする!
夷陵の戦いに敗れた劉備が、なくなる直前に部下である諸葛亮孔明に対して、「息子(劉禅)に国をおさめる才能がなければ君が国を治めてくれ」と言い残して逝去します。
現代に例えると、一代で成り上がった社長が跡継ぎの息子がいるにも関わらず、血縁のない役員に対して「息子に才能がなければ君が社長をやってくれ」とい言い残すようなものです。普通は考えられないですね。
まとめ
人の良さが仇となり裏切られるなどして多くの痛い目にあっていますが、その人徳ゆえに多くの助けも得られています。「悪事はどんな小さな事でも行ってはいけない。善事はどんな小さな事でも行いなさい。」と息子に言い残して63歳でこの世を去っています。
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